• Skip to main content
  • Skip to after header navigation
  • Skip to site footer
少年写真ニュースロゴ

少年写真ニュース

未来への夢を育む少年写真ニュースデジタル版

ニュースのカテゴリーを選ぶ

挑戦する子どもたち
インタビュー
学校現場から
スポーツ
いきもの
イベント
募集

取材の依賴やプレゼントを送る

応募フォーム

教員向け(外部リンク)

SeDoc
アーカイブ
  • X
  • Instagram
  • Search

あなたが描えがく未来みらいは何色ですか?
志津しず栄子えいこさんインタビュー(1)

2025年8月8日 by yoshioka
Tweet

日本では、男性だんせいの20人にひとり、女性じょせいは500人にひとりはいるといわれている「色覚しきかく障しょうがい」。


第71回青少年読書感想文全国コンクールの課題かだい図書(小学校高学年の部)に選定せんていされた『ぼくの色、見つけた!』(講談社こうだんしゃ、2024年)は、色覚しきかく障しょうがいの主人公が、偏見へんけんやいわれのない発言に傷きずつきながらも、自分だけに見える色彩しきさいで絵を描えがくことから、自信じしんを取り戻もどすという物語です。


課題かだい図書選定せんてい後、版はんを重ねてベストセラー入りし、埼玉県さいたまけんの推薦すいせん図書にも選えらばれて、入学試験しけんの題材だいざいとしても採用さいようされるなど、話題の1冊さつです。


『ぼくの色、見つけた!』(志津栄子:作、末山りん:絵/講談社)

その著者ちょしゃである、志津しず栄子えいこさんは、長年小学校教員を務つとめ、ご自身の病気をきっかけに退職たいしょく。病気が原因びょうきで障しょうがいのある身となりながらも、児童じどう文学作家を目指して、作品を書き続つづけました。何に対しても自信じしんを持つことができない主人公が、転校生の少女と出会い、成長せいちょうしていく様子を描えがいた『雪の日にライオンを見に行く』(講談社こうだんしゃ、2023年)で、志津しずさんは、第24回ちゅうでん児童じどう文学賞しょうの大賞たいしょうを受賞じゅしょうしてデビューします。それは、今までは学校で関かかわってきた子どもたちに、別べつの形で関かかわるという夢ゆめをかなえることでもありました。

病と闘たたかいながらも、作品を書くことを通して、子どもたちに思いを伝つたえる志津しずさんに、お話を伺うかがいました。


志津栄子さん

──志津しずさんは、子ども時代どんな子どもでしたか。


2つ上の兄と6つ下の妹がいる、3人きょうだいの真ん中で育ちました。あまり手がかからなかった子だったのではないかと、自分では思います。

家では母が祖父母そふぼを介護かいごしており、私わたしなりにお手伝てつだいをしましたが、もっと助けてあげたかったと思うことがあります。父母が他界したあとも、きょうだいとは仲良なかよく付つき合っています。


──児童じどう文学作家になる前は小学校で教員をされていましたが、先生になったきっかけを教えてください。


話すと長くなってしまうので、このお話はまたいつか、ということにしたいのですが、いわゆる「教師きょうしを目指して一直線!」というわけはなかったです。ただ、子どもに関かかわる仕事につくことができて、とても幸せでした。


──教員として子どもたちに教える際さいにはどのようなことを心がけていましたか?


まず、子どもの立場に立つということです。言葉にするのは簡単かんたんですが、それは実はとても難むずかしいことのように思えました。ある人が、「子どもはみんなナイフを持っていて、時として、それを親や教師きょうしに向けてきます。でも、子どもの立場に立ち切って伝つたえた言葉は、必かならずその子の心に残のこります」と言っていました。「立ち切る」とは、なんて厳きびしい言葉だろう。それに「心に残のこる」なんて、あいまいでよくわからないと感じました。私わたしはその言葉を胸むねにしまい、長い時間をかけて、その答えを探さがしました。

あるとき、成人式せいじんしきに招まねかれたので行ってみると、小学1年生のときに担任たんにんをした子がいて、こんなことを話してくれました。

「僕ぼくが授業中じゅぎょうちゅうに居眠いねむりをしていたので、みんなが起こそうとしたんです。だけど、先生は僕ぼくに上着をかけてくれて、みんなに『起こさないでね』って言ってくれたんですよ」

当時、その子の家は小学校からは遠かったのですが、それでも毎日一生懸命けんめい歩いて通学してくれましたので、疲つかれているだろうな、このまま寝ねかせておいてあげたいなと思ったんです。それをその子が覚おぼえてくれていたことに、驚おどろきました。

子どもたちは一人ひとり違ちがうのだから、全員に同じ接せっし方をすることが平等ではないことを再確認さいかくにんしました。

「子どもの立場に立ち切る」とは、肝心かんじんなところを間違まちがえなければ、案外あんがい単純たんじゅんなことなのかもしれません。


──教員時代に、特とくに印象いんしょう深いエピソードや思い出があれば教えてください。


ある学校で、小学6年生の担任たんにんをしていました。めったにないことなのですが、その子たちが1年生のときも担任たんにんをしていたんですね。身長だって、1年生から6年生になれば30cm伸のびます。ずっと見守ってきた子どもたちでした。

卒業そつぎょうを控ひかえ、将来しょうらいの夢ゆめなどを話し合っているときに、「先生の夢ゆめは?」って聞かれたんです。即答そくとうできなくて、「う~ん……おばあさんになって学校の先生を退職たいしょくしたあとは、みんなのことをお話に書こうかな」などと答えた記憶きおくがあります。苦し紛まぎれに言ったのかな。当時、私わたしは子どもたちが書いた日記を学級通信つうしんに掲載けいさいして、みんなで読み合うのが楽しかったからかもしれないです。

そのクラスに、二人の男の子がいました。1年生のときは二人は仲なかが良かったのですが、2度目の担任たんにんをした6年生のときには、二人の関係かんけいは変かわっていました。みんなに聞いてみたところ、3年生のときに大げんかをしたそうで、それ以来いらい、口をきいていないということがわかりました。二人は6年間同じクラスで、4年も口をきいてないなんて、頑固がんこ者ですよね。ほかの子どもたちは二人を仲直なかなおりさせようとして、いろいろな作戦さくせんを考えました。体育の授業じゅぎょうでバスケットボールをしたときには、二人を同じチームにしたら協力きょうりょくするのではないかということで、二人にそれを伝つたえたところ、一人はしぶしぶ承知しょうちしましたが、もう一人は怒おこって家に帰ってしまいました。

放課後ほうかご、私わたしが家に帰ったほうの子の様子を見に、彼かれの家に行ってくると子どもたちに伝えると、子どもたちも私わたしについてきました。彼かれの家では、当時流行していたゲームをみんなでしました。

5時になったので、私わたしは彼かれに「この本借かりるね」と1冊さつのマンガを手に取り、「明日学校で返すから」と伝つたえました。意地っ張ぱりな子にはそういう言い方をしたら通じるかな、と思ったんです。

小学校に帰って、一人で教室の片かたづけをしていると、一人の男子が入ってきました。「どうしたの?」と声をかけると、「先生、おばあさんになったら、この話を書けばいいよ」と言うんです。思いがけない言葉でした。二人が仲なか直なおりをしないで私わたしが落ち込こんでいるんじゃないかと気にかけて、わざわざ教室に戻もどってきてくれたことに、胸むねがいっぱいになりました。

翌日よくじつ、家に帰ってしまったほうの子は、いつもどおり学校に来ました。結局けっきょく、二人がみんなの前で仲直なかなおりをすることはなかったのですが、バスケットボールのときには同じチームでいっしょに活動していました。

何年もあとになって、私わたしは教室に戻ってきてくれた子のことを思い出し、今ごろになってその優やさしさをかみしめています。「おばあさんになったら……」というのは、精せいいっぱいの慰なぐさめの言葉だったんですよね。

私わたしはもうおばあさんなのかな、そろそろあのクラスのことを書こうかななどと思いつつ、子どもたちに支ささえられて今までやってこれたのだと感謝かんしゃしています。


──教員生活の中で、次つぎに病気が発覚はっかくし、副ふく作用さようなどに苦しんで、泣なく泣なく退職たいしょくすることになります。そこから物書き修行しゅぎょうに入り、作品を書き続つづけましたね。


教職きょうしょくを退しりぞいたときに、私わたしは物語を書きたいと思ったんですね。作家になりたいとまでは思ってもみませんでしたが、書くことが救すくいでした。それと同時に、自分と向き合う苦しい作業でもあったんです。

自分が生きてきたことの「貯金ちょきん」のようなものを切り崩くずして、涙なみだを流しながら、書いて、書いて、また書いて……。そんな日が続つづきました。そのうちに心が洗あらわれていくような、不思議ふしぎな感覚かんかくを覚おぼえました。


──ご自身もたいへんな思いをされていると思います。それでもたくさんの作品を書き続つづけた理由を教えてください。


私わたしは、自己免疫疾患じこめんえきしっかんを抱かかえています(※自己免疫疾患じこめんえきしっかん:本来体を守る免疫めんえきの仕組みに異常いじょうが発生して、体の一部を攻撃こうげきしてしまう病気の総称そうしょう)。その症状しょうじょうが、いつ体のどこに現あらわれるかわからないですし、服用している薬の副作用ふくさようも次つぎと出てきて、本当に冷ひや冷ひやする毎日です。

教員のときは、教室で子どもたちの書いた日記を読むのが楽しみでした。書くことは自分を見つめること、そして相手の思いを知ることでもあります。

たとえば、「人を傷きずつけるような言葉を言ってはいけません」と大人は言うでしょうし、それは子どもだってわかっているけれど、実際じっさいに「バカ!」って言ってしまう自分がいたりするんです。そこを考え合うのが「教室」という場所なのではないかと思いますが、それは理想でしかなく、今の学校でそんなのんきなことを言っている人はいないのかもしれません。本音でぶつかり合うとか、わかり合うとか、ほとんどおとぎ話の世界なのかもしれない。だったら、私わたしはそのおとぎ話を書くことにしようと思い立ちました。

今は日記を書いてくれる子どもたちがそばにいないので、自分で書くしかありません。

というか、「私わたしが書く番が来た!」「今までに出会った子どもたちのことが書きたい!」そんな思いで物語を書いています。私わたしはもう担任たんにんの先生でもなんでもないからこそ、やっと子どもたちの本当の気持ちを代弁だいべんできるようになったのではないかと思います。

ただ、今も私わたしは作家なのかはわかりません。書きたいことがたくさんあるから、もう少し続つづけてみよう、そんな感じです。マラソンランナーにたとえるなら、あの電柱まで、そこまで行ったらその先の電柱まで走り進んでみようという感じでしょうか。


──今まで教えてきた子どもたちが、志津しずさんの原動力になっているんですね。


人ってもう会えなくなってしまったあとに、その人を理解りかいして優やさしい気持ちになれるのかもしれません。どうして、いっしょにいるときにはわからないのでしょう。『ごんぎつね』(新美にいみ南吉なんきち:著ちょ)を読むと、いつもそう思います。だから、書かなきゃ!って。 書きたいことは、あとからあとからわいてきます。


──そうして書いてきた作品の1つが入賞にゅうしょうして、作家生活へとつながりましたね。


初はじめて書いた長編ちょうへん『由佳ゆかとかっちゃん』が「ちゅうでん児童文学賞じどうぶんがくしょう」の優秀賞ゆうしゅうしょうをいただいたとき、まるで大きな誰だれかに手を引かれているように感じました。

入院中、主治医しゅじいから在宅酸素療法ざいたくさんそりょうほうを提案ていあんされて落ち込こんでいると、唯人ゆいとの声がします。「おれが代わりにどこにでも行ってやる」と。唯人ゆいとは『雪の日にライオンを見に行く』の主人公で、この作品が私わたしの作家としてのデビュー作となりました。

物語の中の子どもたちは、私わたしの手を離はなれると、広い世界に出ていきました。どこにでも行けるし、誰だれにでも会える。こんなすてきなことってあるのですね!


──好すきな作品、もしくは作家になろうと思ったきっかけになった作品はありますか?


野村一秋さんの『しょうぶだしょうぶ! ―先生VSぼく―』(文研出版しゅっぱん、2013年)を最初さいしょに読んだのは、教師きょうしをしていたころ、学校の図書室でした。イサムくんと上山先生のやりとりが、とてもおもしろく書かれていました。学校を舞台ぶたいにした作品にありがちな、お説教せっきょうくさい(と感じる)ところが少しもないのも、よかったです。そのときは、「えーっ、こんなことを書いている人がいるんだ」と思いました。

数年後、退職たいしょくしてからもう一度読んでみると、「あーっ、これを書けばいいのか!」と、納得なっとくする作品でした。子どもの気持ちを代弁だいべんし、応援おうえんするような作品。「これを私わたしも書きたい!」と思ったんです。


──お話を書く際さいには、どのような作業をして書いていくのですか?


まずは、書きたい場面から一気に書いていきます。もちろん、取材しゅざいも欠かかせません。「1日10枚まいルール」というのを自分に課かして、毎日その話を10枚以上まいいじょう書きます。

『ぼくの色、見つけた!』は、信太朗しんたろうが雨上がりの公園で目覚めざめるシーンからスタートして、行ったり来たりしながら自由にどんどん書いていきました。

2週間ほど続つづけて、200枚まいを超こえたぐらいのところでプロットをまとめて、全体を見て推敲すいこうしていきます。プロットができた段階だんかいで、第1稿こうは7~8割わりくらい書けましたが、そこから完成かんせいまでがまだまだ長いのです。

編集者へんしゅうしゃさんに見てもらうことが大事だとわかったので、最近さいきんはプロットを早めに書く努力どりょくをするようになりました。


──作家として過すごす1日の生活を教えてください。


朝、カップにカフェオレをなみなみと注いで、昨日きのう書いたものを読み返します。パソコンの画面で見るのではなく、プリントアウトした原稿げんこうを見ます。その時間がとても楽しく、あれこれと書き込こんでいるうちに、お昼になってしまうこともあります。

長い間、分刻ふんきざみの生活をしてきたので、「毎日が日曜日って生活はどんなものだろう、さみしくないかな」などと思っていたのですが、なかなかいいものでした。

基本的きほんてきには、午前中に執筆しっぴつ活動。調子が乗ってくると、1日中ずっと書いていることもあります。午後は、体調がよければ外に出かけることもありますし、友人が訪たずねてくれる日もあります。体がつらいときは、少し休みます。

病院に行く予定がいくつか入っていますが、今はそれも仕事みたいなものです。自分で運転していく気力、体力を保たもつことが課題かだいですが、無理むりなときはタクシーも利用りようします。

心の向くままに夜も書いていますが、長いこと、薬の副作用ふくさようで眠ねむれない日が続つづいたので、夜更ふかしはしないように気をつけています。肺はいを患わずらってからは、もう何年も上を向いて眠ねむったことがありません。クッションを積つみ上げ、そこにうつ伏ぶせる格好かっこうで寝ねるので、眠ねむりは浅あさいと思います。そんな夜には、物語の中の子どもたちと会話をしていることもあります。


(2)に続つづく(https://schoolpress.jp/bokunoiro2/)


志津しず栄子えいこ先生プロフィール

岐阜県ぎふけん在住ざいじゅう。
2022年、『雪の日にライオンを見に行く』にて、第24回ちゅうでん児童じどう文学賞しょう大賞たいしょう受賞じゅしょう。
自身2作目となる『ぼくの色、見つけた!』が、第71回「青少年読書感想文全国コンクール」の課題かだい図書に選出。せんしゅつ

(取材:「デジタル少年写真ニュース」編集部 吉岡)

Visited 241 times, 5 visit(s) today
カテゴリー: インタービュータグ: ぼくの色、見つけた, インクルーシブ, ユニバーサル, 児童文学, 児童書, 夏休み, 多様性, 志津栄子, 色覚障がい, 読書感想文, 講談社, 障がい者

About yoshioka

Previous Post:これはなんの虫?
Next Post:あなたが描えがく未来みらいは何色ですか?
志津しず栄子えいこさんインタビュー(2)

Sidebar

教職員向け
               
SeDoc +
会員制コンテンツ
アーカイブ
掲載用少年写真ニュース
運営会社
少年写真新聞社ロゴ

株式会社 少年写真新聞社
〒102-8232 東京都千代田区九段南3-9-14
HF九段南ビル2F・3F

メニュー
  • お問い合わせ
  • 運営会社WEBサイト
  • プライバシーポリシー
SNS
  • X
  • Instagram

Copyright © 2025 少年写真ニュースデジタル All Rights Reserved.