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絵本『しらすどん』(岩崎書店)をつくった絵本作家、最勝寺朋子さんは、絵本作家になるという夢を叶えるまで、どのような人生をおくってきたのかに迫るインタビューです。子ども時代と社会人になってから夢をかなえるまでを、2つに分けてお伝えします。
まずは、最勝寺さんの子ども時代から大学生生活までをお届けします。

【人生編①〜絵本作家になるまで〜】
──子どものころはどんなお子さんでしたか?
お絵描きやピアノが好きで、徒競走や長距離走以外は、どんなことでも前向きに楽しめるマイペースな性格だったと思います。
学校が好きな子でした。新しいことを知り、わくわくする感覚が好きだったので、授業で先生の話はよく聞きました。5分休みは、ぼーっと窓の外を見て空想の世界に入ることも多かったのですが、そんなときは近くの席の子が、「ずっと動いてないけど、だいじょうぶ?」などと声をかけてくれて、私を現実世界に連れ戻してくれました。その一方で、中休みや昼休みは同級生とドッジボールなどをして遊ぶことが好きでした。給食は食べるのが遅いわりに、おかわりまでしてよく食べていました。
友達関係で悩んだことも人並みにあったと思いますが、それでも学校が好きで、まわりの子が、「明日から夏休みだ!」と喜んでいるときに、私は、「これからしばらく学校に行けないのか」と残念に思っていたことを覚えています。
同居する祖父母から、昔は、戦争や家の都合や性別を理由に学校で学べなかったという話を聞いていたので、子どもながらに、自分が学校に通って好きなように勉強できることは、とてもありがたいことなのだと考えていたのが大きかったと思います。
自分で物語を想像したり、落書き帳に考えたことを絵や文にしたりということは、子どものころからよくやっていて、小学生のころに「作家になりたい」と漠然とした夢は抱いていました。
子どものころから本や物語は私にとって大切な存在でした。誕生日やクリスマス、母からの贈り物は絵本や児童書でしたし、妹や弟が生まれてからは、幼い妹弟に絵本を読み聞かせるときが、私にとって幸せな時間でした。
学校の帰り道や犬の散歩のときに、田んぼのあぜ道で見かける花や、鳥や虫、オタマジャクシなどのことは、友達のように思っていました。
じっと生き物を見ながら、何を考えているのかを想像しているうちに、会話しているような気になったりしていましたね。「命は、人もほかの生き物も同じように尊い」という価値観は、このころに形成されたように思います。
──そして中学生、高校生と進んでいきます。
少しずつ実家のまわりの環境が変わって、友達のように思っていた生き物たちのすみかがなくなっていきました。原風景が失われていくことで、心にぽっかり穴が空いたような気持ちになりました。それをきっかけに、環境問題に興味を持つようになりました。
環境のことを大学で学ぶには、高校生までに理系科目を勉強しておかなければいけません。でも、高校受験を経て、数学には苦手意識がありました。
高校2年生のはじめまでは、自分ができることの中でいちばん好きなことは絵を描くことだと思っていたので、美術系の大学を目指そうと考えていました。
でも、ある日、近所の土手からの景色があまりにもきれいで、「どんなに美しい絵よりも、自然そのもののほうが美しい」と思えてならなかったんです。そして、「生き物たちが暮らすこの景色を、未来に残せるような人間になりたい」という目標が生まれ、そのためにも環境について大学で勉強しようと思いました。
当時、実家から通える範囲で、環境について勉強できる学科がある国公立大学はひとつだけでした。その大学の受験科目には、数学ⅢCという高校数学でいちばん難しい範囲が入っていましたが、目標のために苦手を克服しようと決め、数学だけ塾に通うことにしました。苦手な数学を克服するために勉強するのは、たいへんなストレスでした。
でも、高校にも塾にも、わかりやすく説明してくださる先生がいたので、次第に「得意ではないけれどおもしろい」と思えるようになりました。
受験のための勉強が、自分が生きている世界とつながっている感覚があるときは、楽しく勉強できました。世の中の物体の形が全部数式で表せるとわかったときは特に感動して、数学を勉強してきてよかったと思いました。
希望する大学は、数学のほかにも国語・英語・社会・生物・地学と受験科目が多かったので、小田原城の近くにあった自習室へ、放課後毎日のように通いました。
友達にわからないところを教えてもらったり、つらいときは励まし合ったり、集中力が切れたときは、空き地の草原を眺めながらごはんやおやつを食べたり、気晴らしにお堀のまわりを散歩したり……。同志のような存在がいたことで勉強を続けられたと思います。
──そして、鳥取県にある鳥取大学に進学されました。
浪人しても第一志望の大学には合格できなかったのですが、ほかに環境について勉強できる大学を予備校のチューターさんがいっしょに探してくださり、当時地域環境学科があった鳥取大学に進学しました。
──環境に関して学ぶことができる学科がある大学はたくさんあると思うのですが、その中で、鳥取大学を選んだ決め手というのは?
私はグローバルな環境問題というよりは、自分が生活している地域での自然環境や環境問題を掘り下げて学べる大学を探していました。
その中で都内の大学と鳥取大学の2つの候補が挙がりまして、合格した鳥取大学に進学を決めました。
──大学ではどのような勉強をされたのですか?
生態系や生物の多様性、地形や地質の成り立ち、人と自然の関わりの歴史、自然環境の保全、環境中の化学物質の計測、持続可能な資源の活用、物質循環、再生可能エネルギー、健康や公衆衛生などについて基礎を学びました。
ひとつの地域をフィールドに、多角的な視点で環境のことを考える先生方の講義は興味深いものばかりでした。
鳥取砂丘で植物を観察したり、大学の隣の森で昆虫採集をしたり、顕微鏡で生き物を観察したりすることもありました。
専攻している学科の授業以外も興味がある講義やフィールドワークはできる限り受けました。3か月メキシコでの研修にも参加しました。
──メキシコではどんな研修を受けたのですか?
鳥取大学の海外留学プログラムがあって、メキシコ海外実践教育プログラムに参加しました。
鳥取砂丘には、砂漠化の問題や乾燥地での持続可能な農業などを研究する鳥取大学乾燥地研究センターがあります。
その関係で、鳥取大学から派遣された学生がメキシコのラパス市にある大学と生物学研究センターで、講義や調査実習を受けられるというプログラムです。
メキシコでは、乾燥地の農法を見せていただいたり、日本の技術で現地の水問題をどうするかを考えたり、山で酪農を営みながら持続可能な方法で生活をされている方の生活を、泊まりながら見させていただいたり、ほかにも貴重な経験をたくさんさせていただきました。
世界自然遺産の保護区にある無人島、エスピリトゥ・サント島でキャンプをしながら自然観察をするフィールドワークもありました。
砂漠の崖を歩いたり、野生のアシカの赤ちゃんが近づいてきてくれていっしょに泳いだり、船で移動する際に、ジンベイザメが近くを通ってくれたりして、冒険みたいな意味合いでもすごく楽しかったです。
仕事であちこちに出かけて初めて会う人に話を聞いたり、誰もいない自然の中で生き物を観察してスケッチしたりすることに積極的になれたのは、このプログラムで度胸がついたからかもしれないですね。
──地域環境学科で学びながらどんな方向に進もうと考えましたか?
環境問題を解決していくためには、科学技術を発展させていくだけではなく、その技術を生活の中に取り入れるように考えていく仕事や、知られていなかった事実を知ってもらえるように広めていく仕事も、とても重要です。
将来は環境問題の解決に貢献できるような研究をしながら、そこでわかったことを本でわかりやすくおもしろく伝えることができるような人になりたいと考えました。
──目標は決まったけれど、うまくいかない現実と向き合うことになります。
学科の先生たちの講義はどれも興味深くて、私は将来自分がどんな研究をしていきたいのかということをなかなか決められませんでした。
今思えば、生き物や地形に関係していた内容のほうが自分に合っていたと思うのですが、入った研究室は有機化学の研究室でした。
自然環境が好きという気持ちがあって勉強をしてきた自分にとっては、夜中まで実験室にこもって実験器具に囲まれて、フラスコの化合物と向き合うことは、性分として合わなくて、精神的に疲れてしまいました。
そこからいろいろあって、私はぷっつり糸が切れたように気力を失ってしまい、大学院を受けるための勉強もできなくなってしまいました。
夢を見失って、自分が存在する意味がわからなくなってしまい、心がめちゃくちゃになってしまったのですが、サークルの仲間との明るい時間があったり、学科の友達が話を聞いてくれたりしたことで、なんとか生きていられました。
──つらい思いをしながらも、絵本作家になりたいとしっかり思い始めたのが大学生のときなんですよね。
本格的に意識したのは、大学時代です。福岡伸一先生の『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』(木楽舎)を読んで、鳥肌が立ちました。
生命とは何だろう。生きるって何だろう。そんな哲学的な問いの答えが見えてくるようで、世界がぱあっと広がるのを感じました。
人による時間感覚の違いについて気になっていたときに読んだ本川達雄先生の『ゾウの時間 ネズミの時間 サイズの生物学』(中央公論新社)も、同じように生物学を通して哲学的な問いと向き合うおもしろさを感じました。
また、『寺田寅彦随筆集』(岩波書店)や藤原正彦先生の『若き数学者のアメリカ』(新潮社)、『遥かなるケンブリッジー一数学者のイギリスー』(新潮社)を読んで、科学と文学を行き来できる人がいることを知り、しびれました。
宮本常一先生の『忘れられた日本人』(岩波書店)も好きでした。
そんな作家の先生方への憧れから、「私も気になることを自分で探求して、考えたことや体験したことをわかりやすくおもしろく人に伝えられる人間になりたい!」と、大きな夢を持ちました。
それを形にする表現方法として何が自分に合っているのだろうかと考えたとき、やはり思い浮かぶのは子どものころから親しんでいた絵本や童話でした。
──大学卒業後はどのような道に進んだのですか?
大学卒業後、満身創痍の状態で地元に戻って、アルバイトを始めました。大学院を受験する道もあったかもしれませんが、そのときは大学院に行くお金もありませんでしたし、とても後ろ向きな気持ちの状態で、「一度つまずいた人間が今から大学院に入っても、研究者になんてなれるはずがない」と絶望していたんですよね。
アルバイトをしながら、「自分はこれからどんなことをして生きていこうかな」とゆっくり考えました。アルバイト先で、お客さんや同僚の人から「ありがとう」と言われることで、私は少しずつ人の役に立っているという実感がわいて、生きる希望が持てるようになりました。
──そこから作家へのチャレンジが始まりました。
「研究者にはなれなかったけど、本を書く人にはまだなれるかもしれない」と思って、大学時代に考えていたお話をまとめてみました。それは、つらかったときに私を支えてくれた友人のことを思って作ったお話でした。
その原稿をアマチュア向けの童話コンクールに応募してみたら、ありがたいことに佳作をいただきました。
審査員をされていた作家の先生方から、「読者の子どもたちを信じて、あなたはあなたの書きたいことを書き続けなさい」と背中を押していただき、勇気をもらいました。
最勝寺朋子さんプロフィール
1989年生まれ。神奈川県出身。デビュー作『しらすどん』(岩崎書店、2021年)は「第14回ようちえん絵本大賞理事長賞」を受賞したほか、「第71回小学館児童出版文化賞」にノミネート、神奈川県、岩手県、埼玉県の推薦図書に選出された。2作目の絵本『犬ずもう』(めくるむ、2023年)は「第1回マルジナリア書店絵本大賞」、「第8回ブックハウスカフェ大賞銅賞」を受賞。

絵本作家 最勝寺朋子さんにインタビュー①